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「未来年表」中学1年B組副担任(国語科)
最近、高校時代の世界史の授業を振り返っています。
与えられた山のような課題を思考停止しながらこなすだけに費やした三年間の記憶は、卒業と同時に、悪い夢から覚めた朝のようにきれいさっぱり忘れてしまいましたが、教科書内外の膨大な知識をうたうようにノンストップで語り続ける姿がなぜか「カワイイカワイイ」と評判だったオジサマ先生の世界史の授業だけは唯一好きで、擦り切れかけていた、学ぶ楽しさと私を繋ぐ糸をすんでのところで繋ぎとめてくれていたことを覚えています。
さて、そのオジサマ先生の授業を受けるまでは、革命や戦争、暴動といった歴史の転換点として年表に書かれているような出来事は、ただ漠然と、その都度突発的に起こったことのように感じていました。ホニャララ年にナントカという人物が立ち上がってカントカという乱を起こしたが一方その頃カクカクではシカジカ文化が栄え…というような。カントカという乱とシカジカ文化の関連性など思ってもみないことで、ただ「その時代」ではそういう出来事があったのだ、という「時代」ごとの枠でしか物事を見れていませんでした。それというのも歴史とは典型的な暗記科目で、年号と出来事を一致させて覚えればなんとかなると思い込んでいたのと、実際なんとかなってしまっていたからに他ならないのですが、オジサマ先生によって、歴史とは、まるでそうなることがはじめから定まっていたかのように、すべての物事が途切れなく連関し合い、偶然と必然が矛盾なく織り込まれて現在のこの瞬間まで続く大きな流れとなっているということを知ったのでした。
そんなことを思い出したのは、先日行われた、中学一年生の「未来年表」発表会を見学したからでした。「未来年表」とは、自分の三年後、五年後、十年後、最終目標といったように、ある程度の年齢に至った際に自分がどのような立場にあり、どんな経験をし、どのような功績を築いているのかなどを想像して書く、というものです。
そこには、教員らの多くが中学生の頃に抱いていた「宇宙飛行士」「プロのスポーツ選手」「売れっ子漫画家」などの夢らしい夢はほとんど描かれず、どんなに現在から三年後、五年後とスポーツを愛し活躍しているとする生徒でも、最終的には「サラリーマンになってそれなりにのんびり暮らす」というスポーツとはあまり関係のない職業を選ぶと書く子がほとんどでした。一方スポーツなどの趣味を持たない子たちは、特にこだわりもなく、明大に行き、大企業に就職するというおおよそ世の人々が想像する最も典型的なエリートコースを語っていました。彼らとしては、失敗もあり得る挑戦をするよりも、手堅くいい大学に行けばいい就職先が得られ、いい生活が手に入るという理屈に必然性と常識性があると信じたうえでのことのようです。
人生は偶然の連続と言われることがあります。人生何が起こるかわからない、とも。実際私もまさか教員になっていようとは、数年前までは考えられもしないことでした。しかし振り返ってみればどうやらそれは必然で、これまでの人生の歴史で形成された私の性質、価値観、得た知識、あるいはタイミングなどを総合して、なるべくしてなったようにも思います。歴史とは過去の積み重ねであり、未来も同じように現在の積み重ねなのです。
中学生の彼らはまだ自分が何を好きで、何を得意としているのか、自分について知ろうと試行錯誤している真っ最中です。当然、現在の自己は過去によって形成されたものであり、未来の自己はそうして形成された現在の自己の連続性の先にあるのだということに自覚的である子はそうはいないでしょう。大企業のサラリーマンに本当になりたいのか、そもそもその大企業はどんな業種なのか、明確に言葉にできるわけではないけれど、きっとそれが先々安泰な道だと信じている。それはそれでいいのですが、いつか自分を知っていった先に、自分の思い描く幸福に気づいたとき、この未来年表を過去の自分の記録として微笑んで見返せることを願っています。